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2006年06月24日

青いサムライたちは翼の夢をみたか?

日本は敗れてしまった。日本らしさといわれている早いパス回しをみせることもなく。最大の得点源といわれたセットプレイにいたっては、攻めっぱなしのアジアでの戦いと違って、コーナーにしろフリーキックにしろほとんどその機会すらつくれなかった。

だけども、オーストラリアがみせるようなあの縦パス1本の攻撃はおもしろいとは思わないし、たとえうまくいかなくても、自分たちのスタイルを変えようとしなかったのはよいと思う。少なくともそれでは世界の壁は破れないことがわかったというのは大きな収穫だろう。ジーコがこだわった、個の尊重だけではとても戦えない。
フィーゴとクリスティアーノ・ロナウドの両翼のドリブラーと魔法使いデコからなる、いわゆる1.5列目のプレースタイルが質の高いレベルで確立しているという理由でポルトガルのサッカーが好きだ(前回大会も応援していたが1次リーグ敗退に終わってしまったので、今大会はその分応援のしがいがある)。ほかにも、ブラジルのサンバのリズムにのった個人技、アルゼンチンの華麗なパスワークなど、確固とした伝統的なスタイルをもったチームはみていておもしろいし、強い。

Jリーグを、というよりは、キャプテン翼をみて育った最後の世代。日韓大会からは世代的には大きく変わることはなかったメンバーも、南アフリカ大会ではがらりとかわることだろう。次の世代は、アニメのなかの世界ではなく、子どものころから海外のサッカー中継をみて育った世代だ。決してメディアに注目された世代ではないけれど、そのほうが現実的な夢をみさせてくれそうな気がするし、みるほうとしてはサッカーをたのしめそう。

2006年06月17日

「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」(横浜美術館)

「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」へ行ってきた。2004年が生誕100周年だったこともあり、その前後に各地で展覧会が開かれていた。そのひとつ、イサム・ノグチにゆかりの深い香川でおこなわれたものには足を運んだ。横浜美術館での彫刻展は、それらがひと段落したあとの初の展覧会となる。

イサム・ノグチと神奈川は、幼少時代を茅ヶ崎で過ごしたことと、北鎌倉の北大路魯山人の邸宅の一角で陶器彫刻を制作しながら山口淑子との新婚生活をおくっていたことなど、少なからず関係がある。
神奈川県立近代美術館が開館した2年目には、魯山人の窯で制作した作品を中心とした個展が開かれている。「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」にも、そのときのパンフレットが展示されている。
また、こどもの国のプレイグラウンドもイサム・ノグチ作品であったが、当時のまま残されているものは少ないという。

彫刻家の作品というのは、絵画などと比べて、展覧会を開くのが難しいと思う。作品の多くは屋外に設置されているものが多い。なかには、すでにその場所と一体となっていて切り離すことが不可能なものもある。いや、むしろ、たいていはそうだろう。
「自然は敵か見方かどちらかだ」この展覧会で流されていた映像でも、イサム・ノグチはそんなようなことをいっていた。それは屋外に設置されているコンクリート製のベンチをさしての発言なのだが、風雨にさらされて劣化しているそれは、あきらかに自然を味方につけていた。
そういったアーティストの展覧会だ。現実的に、どうしても制作前の模型であったりプランであったりというものも多くなってしまう。やはり、本当の意思を知るためには、実物を観に行かなくてはならないわけである。イサム・ノグチほどになると、世界各地に散らばっているわけだが。

とはいえ、こういった展覧会を否定するつもりはまったくなく、いちぶがスケールを小さくした模型であっても、系統的に体感できる機会はとてもありがたい。また、それが本人の意図していないものにしろ、灯りによってできる影がまた美しかったりおもしろかったりもする。展示する学芸員も、絵画などとは比較にならないほど気をつかうことだろう。そういった意味では、イサム・ノグチの作品はいまも生きていて成長しているといえる。

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2006年06月11日

「美しき日本の残像」(アレックス・カー,1993,2000)

この本の文庫版の解説(正確には「第七回新潮学芸賞選評」)を書いた司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」シリーズ(1971-1996)の最後は「三浦半島記」だったが(絶筆となった未完の「濃尾参州記」を除く)、「美しき日本の残像」はアレックス・カーが幼少時代暮らした横浜やその当時遊びに出かけた三浦半島の思い出からはじまる。
葉山の畳が美しい宮内庁所有の別荘からみた富士山や、三崎の崖の上に松の木が並んでいる場所で潮風に吹かれていたのを、子どものころの記憶なので詳しい記憶はないがイメージはあざやかに残っている、と書かれている。東京オリンピックのころのことだそうなのだが、葉山から相模湾沿いにみる富士山はいまも美しいし、三崎の「崖の上に並ぶ松の木」とは城ヶ島のことだろうか?太平洋からの潮風はやはりいまも心地よい。この本は、一言でいえば、日本人が言葉にできないような近代の日本の醜さを的確に語っている。ともにかなり限定したたのしみ方ということになるのだろうが、葉山も三崎もどうにかこうにか美しさが残されているといえる。

日本の伝統的だとされる京都や奈良のまちの大部分を否定し、四国の山奥(祖谷)や京都郊外のそれほど有名でない手を加えられていないお寺に日本の美しさをみる。
アレックス・カーは、現在の日本を、自然界をコントロールしようという精神は枯山水というかたちで室町時代からあったが、技術的な限界のない現在、海岸や川をコンクリートで固めたり、京都や奈良の町並みを壊してコンクリート・ボックスにしたり、とうとう日本人は日本全国を枯山水に仕上げてしまったと表現している。日本全国どこへいっても、鉄塔に電線、コンクリート・ジャングル、そして、悪趣味なパチンコ店。ある意味ここまで周到に同じような醜い町並みを造ってしまう日本もすごいと思う。
また、日本人は日本の美術には興味がないとも書いている。美術コレクターが集めるものといえば西洋の印象派の画ばかりだと。日本人はいつしか自らの美しさの感覚に自身をもてなくなってしまったのかもしれない。

しかし「日本の美しさ」あるいは「日本の醜さ」というものは、外国人の目からみたもののほうが的を得ていることが多い。古くはM.C.ペリーが「日本遠征記」で、近年ではバブル期に日本に滞在したダグラス・クープランドの日本観がおもしろい。
アレックス・カーは、学術的にも芸術的にも造詣が深く、それでいて、実際の日本での体験に乏しい学者やアーティストにありがちな偏った見方もないので、その良さも悪さも純粋に日本を再発見できる。その一言一言は、日本人の忘れていたDNAを呼び覚ましてくれるよう。