「場所を生きる―ゲーリー・スナイダーの世界」(山里勝己,2006)
H.D.ソローを源流とするネイチャー・ライティングの旗手にしてのこされた数少ないビート・ジェネレーションの詩人ゲーリー・スナイダーは、ことしで初来日から50年を迎えたそうだ。この本は、その後半、およそ25年間におよぶお付き合いのなかからうまれた、著者である山里勝己氏との対話・対談や論考をまとめたものである。なので、ひとつの大きなストーリーから構成されているわけではなく、いろいろなところに話がとべば、同じような話が重複している部分もある。けれど、まぁ、ひととひととの会話なんてそんなものだし、重要なことであれば、表現は違えど、たびたび話題にあがることであろう。なによりも、この本のタイトルとなっているように、「場所」というものがスナイダーにとって一貫したテーマであることがよくわかる。
東洋への関心から一時期日本で暮らすものの、最終的には自らがうまれたアメリカ西海岸に落ち着き、若いころによくそうしていたように森の生活をはじめるのは、人生そのものが場所の文学のようなもので、その言葉にも説得力がある。別に森にひきこもって閉鎖的な生活をしているわけではないし、都市にでることもある。友だちもたくさん訪れる。電話もあるし、電気(太陽熱発電)もあるし、インターネットだってとっくのむかしにできる環境が整っている。技術や便利さというものを真っ向から否定するのではなく、積極的に受け入れることも大切だ。いまはソローの時代ではない。いまは体制に抗って理想をかかげるだけではなく、それを人生を通して実践してさらに広めたり影響しあったりすることができる。ソローとスナイダーとのいちばんの大きな違いはコミュニケーション力だと思う。個人の能力というよりも環境や時代背景から。
しかし、これだけ情報があふれかえっている時代なのに、もっともっと豊かな暮らしができるはずなのに、世の中がどこか悪いほう悪いほうに向かっているようにみえるのはなぜだろうとよく思うのだが、その場所にそぐわないような生活をしようとする人間があまりにも多いからな気がする。たとえば、資源を求めて地球の裏側までいくようなことをやっている限りはダメなのかな(なかば強制的に、あるいは侵略的に)。
東洋への関心から一時期日本で暮らすものの、最終的には自らがうまれたアメリカ西海岸に落ち着き、若いころによくそうしていたように森の生活をはじめるのは、人生そのものが場所の文学のようなもので、その言葉にも説得力がある。別に森にひきこもって閉鎖的な生活をしているわけではないし、都市にでることもある。友だちもたくさん訪れる。電話もあるし、電気(太陽熱発電)もあるし、インターネットだってとっくのむかしにできる環境が整っている。技術や便利さというものを真っ向から否定するのではなく、積極的に受け入れることも大切だ。いまはソローの時代ではない。いまは体制に抗って理想をかかげるだけではなく、それを人生を通して実践してさらに広めたり影響しあったりすることができる。ソローとスナイダーとのいちばんの大きな違いはコミュニケーション力だと思う。個人の能力というよりも環境や時代背景から。
しかし、これだけ情報があふれかえっている時代なのに、もっともっと豊かな暮らしができるはずなのに、世の中がどこか悪いほう悪いほうに向かっているようにみえるのはなぜだろうとよく思うのだが、その場所にそぐわないような生活をしようとする人間があまりにも多いからな気がする。たとえば、資源を求めて地球の裏側までいくようなことをやっている限りはダメなのかな(なかば強制的に、あるいは侵略的に)。