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「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド,1925,2006)

この小説は、それほど本というものを多く読むほうではないぼくでも軽く10回以上は読み返している。そこまで惹きつけるものはどこにあるのか。

「過去は再現できないって?できないわけがないじゃないか!すべてを昔のままに戻してみせるさ」。この物語の主人公、ジェイ・ギャツビーはなにかにとりつかれたようにそういいきる。
夢は崇高なもの。そして、夢は儚いもの。夢はかなわないから夢なのかもしれない。ギャツビーはむかしの恋人であるデイジーの愛を取り戻すために、彼女の家と狭い海峡をはさんだ反対側に家を買い求め、そこで夜ごと盛大なパーティーを開いた。どこかで噂をきいて、ひょっこり彼女が姿をあらわすのではないかと信じて。
けっきょくのところ、ギャツビーの隣人であり、この物語の語り手であるニックを介して、ふたりは再会することとなる。しかしほどなくしてギャツビーはデイジーの罪を背負ったままこの世を去り、彼女は何事もなかったかのように元の家庭に戻り、ギャツビー(と彼の父親とニック)を除く世界も何事もなかったかのようにまわりつづけていく。

ただの女々しい男だと片づけてしまうこともできるだろう。しかし、無一文同然からたったひとつの夢のためだけに、「人を殺したことがある男」とまでまわりにささやかれながらも成り上がり、最後の最後までジェイ・ギャツビーという自分自身の理想像を演じきったジェームズ・ギャッツ(ギャツビーの本名)の美学に心打たれるのだろう。
そのたったひとつの夢がむかしの恋人に振り向いてほしいという願いで、力ずくで手に入れようというよりはあくまでも偶然を装って再会しようというつつましさもギャツビーの美学といえよう。しかし、巨額の富を手にしても、夢は儚く崩れ落ちていく。現実の人生とは微妙なタイミングでできているものだから。



この新訳「グレート・ギャツビー」の訳者である村上春樹は、この本のあとがきで”人生で出会ったもっとも重要な小説”だと書いている。六十歳になったら翻訳を手がけたい、とも。「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」(村上春樹,1988)のあとがきでもまったく同じようなことを書いており、この小説に対する想いが伝わってくる。
氏が述べるフィッツジェラルドの技巧やディテールのすばらしさなどは正直よくわからないのだが、非の打ち所のない小説だというのは読んでいるときも読んだあともよくわかる。

ギャツビーの口癖”old sport”をどう訳すか二十年以上にわたって苦労して考え抜いたというが、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(J・D・サリンジャー,1951,2003)のなかで、すでにこの新訳「グレート・ギャツビー」と同じように”オールド・スポート”と訳されていたので、このころにはもう腹は決まっていたのだろう。「ぼくは『グレート・ギャツビー』に夢中になってしまった。ギャツビーくん。オールド・スポート。あれには参っちゃったね」と、ホールデン・コールフィールドにいわせている。
このとき同時にホールデンはヘミングウェイを批判してもいる。というか、サリンジャーがホールデンにヘミングウェイ批判をさせている。ホールデン・コールフィールドのイノセントさとジェイ・ギャツビーの態度は、時代背景や年代、年齢が異なっていても、どこか通じるところがあるように思う(当然ヘミングウェイの作品には登場してこないような、どこか宙に浮いているような感じの)。対社会とか、大きなものに立ち向かうとかいう次元とはまったく異なるところで、たとえ他人からみたらものすごくちっぽけなことにみえたとしても、あくまで自分の美学を貫こうとする態度が。

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