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「The Essential Cafe Bohemia」(佐野元春,1986,2006)

それが世間に受け入れられたかは別として、佐野元春という人物は実にmultiなアーティストだとあらためて感じさせてくれた。
アルバム『Cafe Bohemia』がリリースされた1986年前後、佐野元春は架空のカフェ「カフェ・ボヘミア」という世界観のもと、小さな会場でのライヴ活動、ラジオ・プログラムでのDJ、自身が責任編集というかたちで関わる雑誌『THIS』の発行、まだ一般的でなかった本格的なプロモーション・ビデオの制作、自身のレーベルの立ち上げ、ポエトリー・リーディング作品の発表、割と近しいアーティストたちのプロデュース、等、活動の幅は多岐に渡る。「カフェ・ボヘミア」のスポンサーがついたものばかりではなかったが、一貫していたのは、個人主義、そして自由であること。

インターネットなど世界の数人の学者の頭のなかにだけぼんやりと存在していた時代にである。個人の表現方法はいくらでもあるのだ、そして、それを受け取る側の選択肢もまた同様に。「カフェ・ボヘミア」の世界観は物語っていた。
誰かのことを100%理解することはできないけれど、二人でいるならば夢や悩みは分けあうことができる。そうして限りなく100%に近づいていくことができる。そして、間違っているものは間違っているといえる態度も重要だと、「カフェ・ボヘミア」では学んだ気がする。たとえ孤立しようとも。

1920年代のパリ。名もなき詩人や作家、アーティストを名のるすべての人々はガスの灯の下に集った。F・スコット・フィッツジェラルドとアーネスト・ヘミングウェイの出会いもそんな”カフェ”でのことだった。カフェは議論の場だった。希望や憧れ、人生について語った。つまり、理想をもってなにかを語っていた。「奇妙ではあるが、孤独感、絶望感を深めてくれたからこそカフェを愛した」。ヘンリー・ミラーはいう。
当時の”カフェ”のような場は現代にはもうないのだろうけれど、そこで語られるクオリティは比較するまでもないが、blogでだって人生を語ることはできる。「馴れ合いの仲間より、拙い個人」と、佐野元春はいう。個人の充実なくして、まわりの充実もないと。誰にだって人生を語る権利はある。



佐野元春とはちょうど20歳違いで、同じ星座と、誕生日も近い。なので、ここのところ20周年記念盤が来るべきタイミングでリリースされているが、オリジナル版は彼がいまの自分と同じ歳のときに制作したものということになる。

『Cafe Bohemia』は、その壮大でいて「個」を重要視する世界観がとくに好きなアルバムで、フィッツジェラルドじゃないけど、短い”冬の夢”をみている気持ちにさせてくれる。輝いた理想と、夢の喪失。人生はそのくり返しである。

20周年記念盤でようやく当時佐野元春の表現しようとしたことを、身をもって分かるような気がするのである。

ああ、それにしてもぼくらの世代ときたら、ネット世代も第一世代のくせに、文化的なことや夢のあることをする人が誰一人としてあらわれない。金儲けに夢中になる奴らは後を絶たないのに。

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