「ナイン・ストーリーズ」(J.D.サリンジャー,1953,2008)
柴田元幸氏による新訳を読んだ。複数の訳者による荒地出版社版と新潮文庫の野崎孝版を読んだことがあったが、「現在の言葉」(≠「現代の言葉」)で訳された新訳はやはり新鮮だ。
この『ナイン・ストーリーズ』は作者自身が選んだ選書だけあって、「バナナフィッシュ日和」や「エズメに-愛と悲惨をこめて」のような短編小説家としてのサリンジャーのすばらしさが凝縮された作品が数多い。サリンジャー自体、中長編はほとんど発表しておらず、関連するエピソードが「エズメに-愛と悲惨をこめて」のなかでも語られている。そういった意味では、「エズメに-愛と悲惨をこめて」は自伝的要素が強いことも興味深い。
また、エピグラフで禅の公案を載せたり「テディ」のなかで芭蕉の俳句を引用したり、東洋思想を随所に垣間見ることができるのがおもしろい。
第一編の「バナナフィッシュ日和」の最後でグラース家(サリンジャーはグラース家の家族を登場人物に連作を作成(現在も作成中、ということになっているが、40年以上新作の発表はない))の長男シーモアが自殺し、第九編の「テディ」の最後でも主人公のテディが自身の予言どおり死をむかえてしまう(明確な記述はないが)。死のむかえ方はまったく異なるけど、最後の最後に悲劇というか悲惨で終わる物語をはじめと終わりに持ってきたのにはなにか意味があるのだろうか?
個性の強い主人呼たちにあって、片やシーモアやテディのように死んでしまう者、片や「エズメに-愛と悲惨をこめて」の"わたし"や「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」の"僕"のように最後には自分を取り戻す徴候をみせる者が登場する。共通するのは大人と子どもの対話。ある者は絶望し、ある者は救われる。子どもというのはときに残酷なものだ。
この新訳「ナイン・ストーリーズ」は柴田元幸責任編集の雑誌「モンキービジネス 2008 Fall vol.3」に全編掲載というかたちで発表された。雑誌に掲載とはいえ、「ナイン・ストーリーズ」の訳文以外の余計な文章はいっさいない。しいてあげるならば雑誌のコピーライト的なものと次号の予告くらい。
ここまで潔いと、権利上このようなかたちで出さざるを得ないなにかがあったのではないかとか考えてしまう。村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のあとがきみたいに。
この『ナイン・ストーリーズ』は作者自身が選んだ選書だけあって、「バナナフィッシュ日和」や「エズメに-愛と悲惨をこめて」のような短編小説家としてのサリンジャーのすばらしさが凝縮された作品が数多い。サリンジャー自体、中長編はほとんど発表しておらず、関連するエピソードが「エズメに-愛と悲惨をこめて」のなかでも語られている。そういった意味では、「エズメに-愛と悲惨をこめて」は自伝的要素が強いことも興味深い。
また、エピグラフで禅の公案を載せたり「テディ」のなかで芭蕉の俳句を引用したり、東洋思想を随所に垣間見ることができるのがおもしろい。
第一編の「バナナフィッシュ日和」の最後でグラース家(サリンジャーはグラース家の家族を登場人物に連作を作成(現在も作成中、ということになっているが、40年以上新作の発表はない))の長男シーモアが自殺し、第九編の「テディ」の最後でも主人公のテディが自身の予言どおり死をむかえてしまう(明確な記述はないが)。死のむかえ方はまったく異なるけど、最後の最後に悲劇というか悲惨で終わる物語をはじめと終わりに持ってきたのにはなにか意味があるのだろうか?
個性の強い主人呼たちにあって、片やシーモアやテディのように死んでしまう者、片や「エズメに-愛と悲惨をこめて」の"わたし"や「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」の"僕"のように最後には自分を取り戻す徴候をみせる者が登場する。共通するのは大人と子どもの対話。ある者は絶望し、ある者は救われる。子どもというのはときに残酷なものだ。
この新訳「ナイン・ストーリーズ」は柴田元幸責任編集の雑誌「モンキービジネス 2008 Fall vol.3」に全編掲載というかたちで発表された。雑誌に掲載とはいえ、「ナイン・ストーリーズ」の訳文以外の余計な文章はいっさいない。しいてあげるならば雑誌のコピーライト的なものと次号の予告くらい。
ここまで潔いと、権利上このようなかたちで出さざるを得ないなにかがあったのではないかとか考えてしまう。村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のあとがきみたいに。
