« 「バビロンに帰る」(スコット・フィッツジェラルド,1931) | メイン | 吉祥寺再訪 »

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(スコット・フィッツジェラルド,1922)

二十代のころ、まだじゅうぶんに若かったころ、ぼくはいつも自分のことを"永遠の19歳"などといっていた。純粋に若くありつづけたいと思うことと同時に、不完全燃焼に終わった青春時代を憂えてのことだったのだと思う。現にぼくのヒーローは、いつまでも純粋な夢を追いつづけたジョン・レノンであり、ジェイ・ギャツビー(小説「グレート・ギャツビー」(スコット・フィッツジェラルド,1925)の主人公)だった。
さすがに最近は理想と現実の境も少しはわかるようになり、また恥ずかしさというものも覚え、"永遠の19歳"なんて発言は(めったに)しなくなったが。

おばあちゃんのお通夜のあと、家族がひさしぶりに再会した親せきと思い出話に花を咲かせているあいだ、ぼくはひとりになりたかったので近くの本屋へでかけた。とくになにかお目当てがあるわけではなかった。夜も10時になろうとしていたので、とりあえず開いていた本屋に吸い込まれたというだけだった。雑誌やら小説やらをいくつか手にとっては返すという作業をくり返していたが、しばらくして一冊の本が目にとまった。
映画化されているのは知っていたけど、とくに読んでみたいとは思いつかなかった。そもそも、映画化されたものの原作が急遽翻訳されたり書き下ろされたりとかしたものを読むのはただの映画好きがすることであって、読書好きとしてはどうにも好きになれる行為ではなかった。だけど、それがフィッツジェラルド作品というのなら話は違う。すぐに購入すると、薄暗い葬儀場の下の薄暗い駐車場に停めてある薄暗いクルマのなかで読みはじめた。

この本には本作1編しか収められていないが、物語自体はすごく短い短編だ。効果的なイラストが雰囲気を出している。フィッツジェラルド作品にしてはめずらしいSFタッチの物語で、さしずめ早すぎたポストモダンといったところか。主人公ベンジャミンは老人の姿で生まれ、若返っていくというストーリー。全体を通して、親や妻や息子、孫をはじめとした周囲との葛藤が描かれる。フィッツジェラルドの短編として読みはじめた当初は違和感があった。しかし読み進めていくうちに、すぐにやっぱりフィッツジェラルドだと感じた。「すぐに」とはいえ、そう感じたころにはこの短い物語は残すところ数ページというところまで来ていたのだが。
けっきょくのところベンジャミンの最期は自分の人生が現実だったのかよくわからないまま、夢うつつのまま終わっていくことになる。歓迎されずに生まれてきたという出生の違いこそあるが、それはたいていの人の人生の終わり方となにも変わらない。



晩年のおばあちゃんはボケてしまっていたので、いつもどこか焦点の定まらない目をしていた。しかもかなり若くしてボケてしまったので、恩返しらしい恩返しができなかったことがとても残念だ。子どものころ、共働きの親にかわっていつも夕飯を食べさせてくれたり、暇さえあればデパートの屋上で遊ばせてくれていたのに。
ときどき、酒屋の仕事をしていたころを思い出させるような単語に反応してくれるときがうれしかった。
7年前の春、おじいちゃんが亡くなったときにすでによくわからなくなってしまっていたのは、幸せだったのかもしれない。

おじいちゃんはわりと突然亡くなってしまったけど、おばあちゃんは大きな病気にかかることもなく安らかに人生を終えた。それは、どこか、赤ちゃんに戻っていくようでもあった。

なにを想って人生の最期を迎えたのだろうか。ボケてしまった最後の何年かは常に夢をみているような感じだったのかな。まだおじいちゃんやぼくの母親なんかも元気なころの夢なんだろうな。
最後にみる夢はいちばん幸せだったころの夢だって絶対に決まっているから。
きっと若くて幸せな日々が長くつづいていたんだろうな。おばあちゃんの場合はとくにとっても長い夢だったから、ぼくも登場していたりするのかな。どうなんだろうな。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)