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「気ちがいのぼく」(J.D.サリンジャー,1945)

サリンジャーが死んだというニュースは逆に、サリンジャーがまだこの世の人であったということを思い出させてくれた。
たまに著作権侵害の訴訟を起こしたとかでニュースに出る以外メディアに名前が出てくることもないし、もう何十年も田舎で隠遁生活をしていたというのは有名な話だったけど、本当はもう生きていないのではないかとも思っていた。

追悼の意味を込めて、短編集『若者たち』(2000)に収められている「気ちがいのぼく」(1945)を読み返した。
これは「ライ麦畑でつかまえて」(1951)の原型といわれる短編で、ここでのエピソードがほぼそのままのかたちで「ライ麦畑でつかまえて」に使われている。しかもかなり骨格となる部分なので、この作品が世に出たあとも、「ライ麦畑でつかまえて」がかなり長い時間考え抜かれてつくられた長編であることがうかがえる。

だから当然、ホールデン・コールフィールドの性格もすでにできあがっていて、ひとつのことが気になるとそればかりこだわって考えて込んでしまうことや自分だけがまちがっていると思い込んでしまうところなどは、「ライ麦畑でつかまえて」よりもむしろ簡潔に描かれていてわかりやすかったりもする。



常に若者たちを主人公に純粋無垢なものを求めさせてきた作者が、いまのところ遺作とされている「ハプワース16、一九二四」(1965)以後、どのような作品を書いていたのか気になる。
それ以後、なにも書いていなかったといわれても誰も信じないだろう。公表されることがあるのかどうかは別として、やはり若者たちを主人公に書きつづけたのか、それとも等身大の大人を主人公にして書いたのか、気になる。
純粋無垢な若者たちを主人公にしては書けなくなったから新しい作品を発表することができなかったということも、じゅうぶんに考えられると思うが。

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