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2010年10月18日

くりはま花の国・コスモス園 2010 秋

ことしの秋の花の街フェアは悪天候のため2日とも中止となった。昨年も直前に台風がきて、花の街フェア自体は開催されたが、コスモス園自体はあまり良い状態ではなかった。

手前のほうを中心に状態の良い花がまとまるように植え替えられていたようだった。

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2010年10月10日

「オラクル・ナイト」(ポール・オースター,2003,2010)

34歳の主人公シドニーが病から復帰し、リハビリのためにブルックリンのまちを歩きはじめるところから物語ははじまる。
職業も違うし、シドニーと違って美しい伴侶もいないけれど、いまのぼくと似た境遇も少なくない。何かを書かなければという衝動や、年齢、リハビリの必要性など・・・。

その後、いくつもの物語内物語を核に話は進む。これほど入れ子に物語をからめている小説を他に読んだ記憶はない。
だけど、現実の世界におきかえれば、誰かが他の誰かのことを想えばそれは同じようなことなのだろうし、別に特別なことではないということにも気づく。病み上がりだろうとそうでなかろうと。



ジョージ・オーウェルの「1984年」がよく引き合いに出されるポール・オースターの「最後の物たちの国で」はディストピア小説とされるが、「オラクル・ナイト」に出てくるH・G・ウェルズの「タイム・マシン」もディストピア小説といわれる。
世に出る物語なんて、よくある話ではたいていつまらなくなるから、度合いの違いはあっても結果的にディストピア小説になることは多いのだろうと思う。ポール・オースターの場合はなぜだか決してSFチックにはならないけど。

もしタイム・マシンがあったら、「オラクル・ナイト」の主人公シドニーもいうようにウェルズの「タイム・マシン」の主人公のように未来へ行くのではなく、過去へ行くだろうな。迷うことなく。
だけど、未来永劫、タイム・マシンなんて発明されることがないことをぼくは知っている。だってそんなものがあったら、未来からぼくらの子孫がやってきて、絶対もっと良い世の中にしているはずだから。

2010年10月05日

「エクスタシーの湖」(スティーヴ・エリクソン,2005,2009)

「エクスタシーの湖」はスティーヴ・エリクソンの1作前の長編小説「真夜中に海がやってきた」(1999)の続編的物語になっている。いちぶ設定が異なるが、前作同様、クリスティンを物語の主人公としてはじまる。2004年、ロサンゼルスの中心部に突然巨大な湖"ゼッド湖"があらわれたところからはじまる。物語が進むにつれて内容は混沌としてくるわけだが、体裁も、もうどう理解したら良いのかわからなくなるほど混沌としてくる。

おそらく原文にできるだけ忠実に日本語訳版も制作されたのだと思うけど、途中から1行だけ別の物語が挿入されるようになったり、インデントが不規則になったり極端に下寄りになっていたり、フォントが変わったり、空白のページがあったり・・・。物語の内容をよりリアルに表現するためにはこのような体裁が必要だったのだろう。
なんでもありのWebでなら簡単に表現できるようにも思うが、よく考えてみるとこのような表現は、読み手はいつでも基本的に常に同一のページの枠内をリニアに読み進むことが前提の書籍ならではとも思う。



"彼女の恐怖は、母であることよりも大きくなる。恐怖はそれ自体が恐れる危険に変身して(強制改行)それは湖と呼ばれることになる。"という文章がある。どこまでが本当の物語でどこからが登場人物の妄想?恐怖?なのかわからないことが多い。

ポストモダンの作家のなかでもとくに前衛的な表現をしてきたスティーヴ・エリクソン。
とにかくいちど読んだだけで理解することは難しかったので、また少し時間をおいて読みなおしたいと思う。

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