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「アメリカン・サイコ」(ブレット・イーストン・エリス,1991,1995)

上巻だけ読んでしばらく止まってしまっていたが、読み終えた。
現代の(正確には1980年代の物語だが)アメリカの病を読んだ気がした。タイトルのまんまだけど。



このすぐあとにサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も読み返した。

たまたまだけど、「アメリカン・サイコ」の主人公パトリック・ベイトマンはアーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」が好きだといい、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公ホールデン・コールフィールドは「武器よさらば」のことを理解できないという(代わりに「グレート・ギャツビー」をべたぼめする)。まぁ、そんなま逆の小説でもある。
ぼくも高校時代くらいまでは、ジャズ・エイジの作家のなかではフィッツジェラルドよりヘミングウェイのほうをよく読んでいたように思うけど、いつしか逆転していった。いまではヘミングウェイを読み返すことはほとんどなくなった。ヘミングウェイはたしかにうまいんだけど、心に残るのはフィッツジェラルドなんだな。

野崎孝訳と村上春樹訳をもっているが、今回は村上訳を読んだ。直前にやはり読み返していたF・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」も村上訳で読んだから。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」も、野崎訳は名訳だと思う。
翻訳は現代語で訳した文章を読むことができるのが、長所でも短所でもあると思う。

村上訳は小説としては一風変わっていて、あとがき的な文章がなにも付いていない。野崎訳には文末に「解説」が付いているが、村上訳の発行時には契約の関係上付けられなかったという。
しかしその辺は出版社側もうまくやったもので、発行当初、本屋などではあとがきに代わる文章として、新聞形式の別紙で”「キャッチャー・イン・ザ・ライ」刊行記念対談 「ライ麦畑でつかまえて」新訳を語る”が配られた。訳者の村上春樹とポール・オースターなどポストモダンな作家の翻訳で知られる柴田元幸による対談が、かなりのヴォリュームでたのしめる読み物だ。さらに後日、この対談が好評だったとのことで「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(村上春樹・柴田元幸)なる本も刊行された。この本では二人の対談のほかに、村上春樹による「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の幻の解説と柴田元幸による短編(エッセイ?)「Call Me Holden」を読むことができる(これも偶然だが、「Call Me Holden」をパラパラ流し読みしていたらエリスの「アメリカン・サイコ」の話が出てきた。ホールデンに妹のフィービーや弟のアリーがいなかったらベイトマンみたいな男になっていたかもしれないと、語られている)。

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