メイン

2011年01月15日

「青春は美わし」(ヘルマン・ヘッセ,1916,1954)

ヘッセとかゲーテとか、ドイツのクラシカルな作家の小説はたまに無性に読みたくなるときがある。なんていうか、余計なテクニックを使っていない文章というか、話の内容がリニアである場合が多いので、安心して読める。それに、日本のクラシカルな作家の文章を読んだあとにも感じることがあるような、読み終えたあとにすがすがしさみたいなものを感じることができるのも良い。



「青春は美わし」の物語自体は、主人公が何年かぶりに帰郷して昔好きだった女のコと再会するが失恋し、すぐまた他の女のコに恋をするが故郷を去る直前に想いを告げるもののまた失恋するという、ダメな男の物語ではあるのだけど、相手の女のコが良い人ばかりで、変なドタバタ劇も起きないのがまた良い。実際には、時代がいつであろうと国がどこであろうと、恋愛なんてもっとドロドロとしたことも起きているはずだろうけど。
いずれにしろ、現実は残酷であったとしても、時間がたてば、思い出は美しいまま残っていくものである。

2011年01月14日

「アメリカン・サイコ」(ブレット・イーストン・エリス,1991,1995)

上巻だけ読んでしばらく止まってしまっていたが、読み終えた。
現代の(正確には1980年代の物語だが)アメリカの病を読んだ気がした。タイトルのまんまだけど。



このすぐあとにサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も読み返した。

たまたまだけど、「アメリカン・サイコ」の主人公パトリック・ベイトマンはアーネスト・ヘミングウェイの「武器よさらば」が好きだといい、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の主人公ホールデン・コールフィールドは「武器よさらば」のことを理解できないという(代わりに「グレート・ギャツビー」をべたぼめする)。まぁ、そんなま逆の小説でもある。
ぼくも高校時代くらいまでは、ジャズ・エイジの作家のなかではフィッツジェラルドよりヘミングウェイのほうをよく読んでいたように思うけど、いつしか逆転していった。いまではヘミングウェイを読み返すことはほとんどなくなった。ヘミングウェイはたしかにうまいんだけど、心に残るのはフィッツジェラルドなんだな。

野崎孝訳と村上春樹訳をもっているが、今回は村上訳を読んだ。直前にやはり読み返していたF・スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」も村上訳で読んだから。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ(ライ麦畑でつかまえて)」「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」も、野崎訳は名訳だと思う。
翻訳は現代語で訳した文章を読むことができるのが、長所でも短所でもあると思う。

村上訳は小説としては一風変わっていて、あとがき的な文章がなにも付いていない。野崎訳には文末に「解説」が付いているが、村上訳の発行時には契約の関係上付けられなかったという。
しかしその辺は出版社側もうまくやったもので、発行当初、本屋などではあとがきに代わる文章として、新聞形式の別紙で”「キャッチャー・イン・ザ・ライ」刊行記念対談 「ライ麦畑でつかまえて」新訳を語る”が配られた。訳者の村上春樹とポール・オースターなどポストモダンな作家の翻訳で知られる柴田元幸による対談が、かなりのヴォリュームでたのしめる読み物だ。さらに後日、この対談が好評だったとのことで「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(村上春樹・柴田元幸)なる本も刊行された。この本では二人の対談のほかに、村上春樹による「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の幻の解説と柴田元幸による短編(エッセイ?)「Call Me Holden」を読むことができる(これも偶然だが、「Call Me Holden」をパラパラ流し読みしていたらエリスの「アメリカン・サイコ」の話が出てきた。ホールデンに妹のフィービーや弟のアリーがいなかったらベイトマンみたいな男になっていたかもしれないと、語られている)。

2010年11月27日

「夜はやさし」(スコット・フィッツジェラルド,1934,1989)

この前古本屋で見つけて買っておいた、F・スコット・フィッツジェラルドの「夜はやさし」を読み終えた。
この「夜はやさし」には2つのヴァージョンがあって、オリジナル版とフィッツジェラルドの死後に彼の指示にしたがって再編されたカウリー版と呼ばれる改訂版がある。いちど発表したあとに作者自らの意思で大幅なストーリーの改版をおこなうことはめずらしいが、これはあまりにもオリジナル版が不評だったことにフィッツジェラルドが悩んだ末に決断したことなのだそうだ(このあたりの経緯は、村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」が詳しい)。
それにしても、読み終えるのに約1ヶ月もかかった。時間はとてもあったはずなのに・・・。



もともと文章を読むのに時間がかかるということと、上下巻からなる「夜はやさし」の上巻を読み終えたあとに他の本を何冊か読んでいたことも時間がかかったことの言い訳にあげられる。

上下巻のあいだに読んでいたものは次のとおり。

「アメリカン・サイコ(上巻)」(ブレット・イーストン・エリス)
ジェネレーションXを代表する作家の一人とされるエリスの代表作。サスペンスとかホラーとか官能小説とか、ジャンル分けがしにくい小説。やたらとジャンル分けをしたがるジェネレーションXを皮肉っているかのように。
これもまた上巻でとまってしまっている。

「風立ちぬ」(堀辰雄)
八ヶ岳周辺の雰囲気は好きで、そういうことを思い浮かべながら読んだ。ここ何年か父親が入院している富士山のふもとの病院にもこの小説に出てくる病院周辺と共通する雰囲気があるためか、なぜだか親近感がある。
固有名詞や登場人物が多いジェネレーションXな小説を読んだあとだと、このミニマムな登場人物しか出てこない物語はとても新鮮。

「動物農場」(ジョージ・オーウェル)
農場から自分たちをいいようにこき使う人間たちを追い出して、豚をリーダーとした社会を築きあげるところからはじまる物語。旧ソ連のスターリン体制を皮肉った寓話とされている(続編とされる「一九八四年」は、その革命が失敗に終わったあとの世界を描くディストピア小説)。
おもしろいのは、この物語の構図がなにも共産主義や全体主義に対してだけ当てはまるとというわけではないこと。民主主義とか自由主義とかいわれているような世界でも同じようなことが起きている。
ネットの世界なんて顕著な例で、誰かがどこかで情報を操作している、まさに全体主義の極致なんじゃないかとさえ思えてくる。

「ベンジャミン・バトン」(F・スコット・フィッツジェラルド)
1、2年前にブラッド・ピット主演で映画化された際に相次いで2種類の日本語訳が発表された。そのうちのひとつは発売後すぐに購入して読んでいたが、もう一方のほうも買って読んでみた。
まぁ、訳者が違うからといって内容はたいして変わるはずもなく、今回読んだほうには他にも日本語訳が未発表だったものも含む短編が何篇か収録されていて、それ目当てで買ったようなものだ。
これだけメジャーな作家の作品なのにこれまで表に出てこなかっただけのことはあって、おもしろくないものもあった。そんななかでも、「最後の美女」の、読んだあとにおそってくる虚無感はいかにもフィッツジェラルドならではのものだと思った。

あとは新書も何冊か読んだ。

さて、「夜はやさし」の話だった。
昭和35年に翻訳されて、いちど廃刊になったものの、平成元年に限定復刻版として出たものを読んだので、日本語からして古くて少々読みにくかった。近年、新訳も出たそうなのでそっちを読むべきだったかな。
前半こそ華やかな雰囲気ではじまるのにそれ以降はなにひとつ成功しないし最後にはなにも残らないという転落の物語も、フィッツジェラルドの自伝的小説といわれているだけあって妙に説得力がある。普通なら後悔しても良いようなことも決してそうはいわない(物語の登場人物にいわせない)。自分がもうすでにすべて失っていることに気づきながらも、できるだけまわりの人を傷つけずに、自分からフェード・アウトしていく様は「グレート・ギャツビー」にも似ている。フィッツジェラルドの小説全般にいえる感覚なのだろう。

それから、村上春樹の「ノルウェイの森」がこの作品を下敷きにしていることがよくわかった。登場人物やストーリーの展開といったプロットがほぼ同じだ。とてもこの作品に思い入れがあることがうかがえる。
村上春樹はフィッツジェラルドを何篇も翻訳しているし、ぜひ「夜はやさし」も翻訳してほしい。

 1  |  2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  |  8  |  9  | All pages »

カレンダー

2011年11月
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30